いつの頃からか、ゲーム機を求める気持ちがなくなりました。もう年なのか、他のことに興味が移ったのか。興味が史跡めぐりや音楽、哲学などに移るにつれ、ゲーム熱は下がっていくばかりです。
こうなると、PS5値上げのニュースに接しても、心はまったく動きません。13,000円の値上げは相当だなと思いますし、ゲーム系ユーチューバー界隈は騒然としていますが、私の心は穏やかです。もう昔のゲームしかプレイしてないですからね。あるいは簡単なローグライトとか、お手軽なゲームばかり。ハイカロリーな作品なんて摂取するエネルギーはもうないですし、そのためのゲーム機もいらないのです。
煩悩がなければ心は穏やか
これ、ある意味「部分的悟り」みたいな状態なんですよね。PS5値上げのニュースは、PS5がほしい人にとっては悲報です。心をかき乱されます。ここぞとばかりに「悲報!」を連発するユーチューバーも鬱陶しいでしょうし、「どうしてもっと早く買わなかったんだ」と自分の判断力不足を責める人も出てくるかもしれません。
でも、PS5が欲しくない私にとっては、このニュースは何も関係ないのです。騒いでいる人たちを見ても、「なんか大変そうだなぁ」と眺めるだけです。PS5への煩悩がまったくないのだから当然です。つまり私は、PS5についてはすでに煩悩を克服している、といえます。今まで買わなかった奴は負け組だとか、Xboxを買った側が勝ち組だとか、そういう競争に巻き込まれる必要がまったくない。煩悩がなければ、そうした言い争いの外に立っていられます。
ここで思うのは、「あらゆることについてこんな穏やかな気持ちでいられたら、幸せだろうな」ということです。私はPS5については「ミニ悟り」を得た状態ですが、私にとって大事なことについてはそうはいきません。私のアイデンティティを脅かす人には腹が立ちますし、こちらを侮辱してくる人に対して穏やかな気持ちでは相対できない。PS5と同様に、自分自身のことについても突き放した目で見ることができたならどれほど楽か、と思いますね。そもそもその「自分」なるものには実体がないと言ってるのが仏教なのですが、それが体感としてわからなければ意味がないのです。
耳で興奮する文化の国とPS5
飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』には、「耳に興奮する文化を持つ国」の話が出てきます。この国では、女性は全員耳を隠して暮らしています。ちょっとでも耳が見えてしまうと、男たちは全員理性をなくしてしまうのです。なので、この国の修行者たちは、一生懸命耳への欲望を断とうとします。そしてついに、「それはただの耳だ」という心理に到達する者もあらわれるのです。
「俺は今まで何をやっていたんだ!まったくもって馬鹿馬鹿しい!こんなのただの耳じゃないか!今までの苦悩は何だったんだよ!」
あなたは、今まで自分が必死になってきたことの、あまりの馬鹿馬鹿しさと恥ずかしさに笑うしかなかった。
悟りを得ると、こうした晴れ晴れとした気分になるようです。それはそうでしょう。今まで自分が執着してきたものが、まったくとるに足らないものに見えるのですから、笑うしかありません。私にとってのPS5がそうであるように、人間、自分が執着していないものに対してはこうした態度をとれます。ただのゲームができる箱じゃないか、といえるのです。でも、自分が本当に欲しいものや、本能が絡む分野に関しては、こうはいきません。
私には欲しいイヤホンやスピーカーがありますし、行きたい場所もたくさんあります。それらをどうでもいいものとして扱うことはできません。そこに煩悩があるのだから当然です。イヤホンだって多くの部品の集まりだから実体はない、「空」じゃないか、といわれたところで、煩悩が消えることはありません。こういうことは、頭でわかっているだけでは意味がないのです。こういう趣味を持たない人からすれば、オーティオ機器などとるに足らないものにしか見えないでしょう。イヤホンごときに夢中になるなんて、耳に欲情する部族と同じくらいばかげたことに見えるはずです。
私が耳やPS5に対するのと同じように、あらゆることに対して執着を持たなくなれば、そこに絶対的な安らぎが訪れるのでしょうか。そんな境地にたどりつける人が、どれくらいいるのでしょうか。最近はそれができたと称する人が多いのですが、ただ商売のためにそう言っているだけかもしれません。もしその人が本当に悟っているならば、なぜオンラインサロン的なものを始める必要があるのか。ただひっそり生きているだけで幸せなはずなのに。そんな疑問を持ちつつも、ついその手の人が書いた本に手を伸ばしそうになるのも、やはり煩悩のなせる業でしょうか。